昨夜から降り出した雨は、朝になっても続いていた。
駅に近づくにつれて、傘の数が増えていく。それほど強い雨ではないものの、
皆足下を気にしながら歩いている様子がわかる。
いつもの時間、いつもの電車。
ごく日常的な、薄く引きのばしたパン生地のように特徴のない通勤風景。
やがてホームに電車が着き、池袋行きの私鉄電車に乗り込む。

僕は池袋駅で、私鉄から地下鉄有楽町線に乗り換える。
僕が勤務する会社は飯田橋にあり、新木場方面に向かうこの電車は
いつも混んでいて、僕は毎日うんざりする。

通勤のストレス。誰もが抱えていることとはいえ
(あるいは多くの人たちはすでに慣れきって感覚が麻痺しているのだろうか)、
毎日こんなストレスを感じることは僕の望むところではない。
いつものように1本やり過ごしてから次に入ってくる電車に乗り込むことにする。
しかし、定刻になっても電車が入ってこない。どうやら遅れているらしい。
2分ほど待つと、次の電車が姿を現す。
人々が同じようにはき出され、吸い込まれていく。そのなかには、僕がいる。
ここでは、僕は僕でなく、ただの人々となる。

「電車は定刻より2分ほど遅れて発車しました。ご迷惑をおかけして大変申し訳ございません」
と、社内アナウンスが告げる。別に2分くらい遅れたところで誰も文句は言わないと思うのだが、
わざわざアナウンスするということは、それなりに理由があってのことなのだろう。
わざわざその理由を知りたいとも思わないが。
僕は6号車両に乗り、進行方向に対して左後方の連結部分に一番近いところに立つ。
そして目線を右にやり、社内を見渡してみる。

漫画雑誌を目の高さに持ちあげて読んでいる若いサラリーマン、
下に伸ばした腕の先でさりげなく手をつないでいる学生と思しきカップル、
ハードカバーを目で追っている白髪交じりのサラリーマン、しきりに爪をいじっているOL風の女性。
真後ろからかすかにヒップ・ホップ系の音楽が聞こえてくる。
彼(彼女?)は音が漏れていることに気づいているのだろうか。

車内に知っている顔はいない。みな、他人である。他人同士、
一時的に車両という空間と、そこに存在する時間を共有している。
座席に座っている乗客の半分以上は、目蓋を閉じ、頭を下げている。
彼らは、自分の存在を否定しているように見える。
座席やつり革と同じように、はじめから車両の一部としてそこにあったもののように振舞っている。
朝の通勤電車では、誰も自分の存在を主張しない。僕も主張しない。今日は月曜日である。

調和が保たれた朝の通勤車両。そのなかに、背番号51の男はいた。

背番号51の男の姿を見つけた僕は、乗客の隙間から彼の姿を再確認する。
彼を目の当たりにしたのははじめてだった。
彼が有楽町線に乗っているという“ウワサ”など聞いたことがない。
いや、それどころか日常的に電車や地下鉄を利用しているかどうかさえも怪しいものだ。
しかし今、背番号51の男は僕の目線の先にいる。
緑色のコンバース、濃いブルージーンズ、右肩から黒いナイロンのショルダーバッグを下げている。
白地に薄いピンクのラインが入った長袖のシャツを着、その背中にはブルーの生地に、
細いイエローのラインが施された51という番号がついていた。背番号51。

背番号51の男は、進行方向に対して左側のドアに体の左半分を預けている。
僕の位置からは、彼の背中がよく見える。
何度も確認するようだが、背中には確かに51という番号がある。
髪は黒く、ヘア・ワックスで立てて、後方に流している。顔はよく見えない。
耳からイヤフォンが下がっている。何を聞いているのかまではわからない。
後ろからはさきほどからずっとヒップ・ホップが漏れている。
彼は、毎日この電車に乗っているのだろうか。
それとも、たまたまここに居合わせただけなのだろうか。
いずれにしろ彼のたたずまいは、モナ・リザの微笑みのようにごく自然な印象を受ける。

車内は静かである。声を出しているものは誰もいない。
車輪とレールがこすれる音と、空調のモーター音、地下の風の音、
そしてカーブにさしかかると、チューニングのあっていない
バイオリンを弾いているようなブレーキ音だけが聞こえてくる。
空調は動いているが、乗客が多いので社内が蒸し暑いように感じる。
雨が降っているせいもあるのだろう。
手をつないでいるカップルも、お互い上に目線を向けたままじっと何かを見つめている。
目線の先には、サプリメントの車内広告がある。

電車は東池袋駅に到着する。
ドアに目線を送らなくとも、一部の乗客が降りていき、新しい人たちが乗り込んでくるのがわかる。
僕は再び背番号51の男に目線を戻す。彼はじっと頭を下げている。
もしかしたら何かを読んでいるのかもしれない、と僕は思う。そして、ここで僕はあることに気がつく。

おそらく、彼は、傘を持っていない。

今日は朝から雨が降っている。より正確にいえば、昨夜から降り続いている。
こんな日は、誰もが濡れないために、傘を持っている。
僕の目の前に座っている老婦人も、その隣で目を閉じている小太りな中年サラリーマンも、
僕の右隣に立っている細身の中年サラリーマンも手元に傘を携えている。
そして、僕自身もいつだったかどこかの居酒屋から持ってきたビニール傘を持っている。

もう一度、背番号51の男を見やる。
やはり傘を持っていない。あるいは、体の影になっていて
僕の位置からは見えないだけなのかもしれない。しかし僕は断言できる。

彼は、傘を、持っていない。

電車は護国寺に到着する。背番号51の男は一瞬顔をあげ、体をひねる。
このとき、彼の表情を見る。整った眉に細い目、やや丸みを帯びた鼻、
唇はやや薄く、あごには無造作に髭が伸び、僕よりも2つか3つ年下のように思える。
そして彼の手元に文庫本を持っていることを確認する。やはり彼は本を読んでいた。
本には、緑色のカバーがされているので、何を読んでいるのかまではわからない。
電車が発車すると、彼は再び文庫本に目線を落とす。
僕の視線に気づいているのか、いないのか。それを確かめる術はない。

ときどき誰かの咳払いが聞こえてくる。ひとりが咳払いをすると、ほかの誰かも咳払いをする。
僕は、ぼんやりと今日やるべき仕事のことを考える。
午前中は社内ミーティング、午後からは取引先との打ち合わせが1件入っていたっけ、と思う。
そして今日は何時ころ帰宅できるだろうか、とも思う。
月曜日から残業をするのは、物事の望ましいあり方ではない。
再び背番号51の男の背中を見る。男の背中には、
まるで生まれたときからそれを背負っていたかのように51という番号がついている。

それにしても、彼はどうして傘を持っていないのだろう。
単に忘れてきたのだろうか。それともはじめから持って出歩く気などなかったのだろうか。
あるいは、彼にとって傘を持っていないことは、形而上学的なことなのだろうか。
しかし、ここでひとつ言わせていただければ、不思議なことに彼はまったく雨に濡れていない。
車内は相変わらず蒸し暑く、呼吸をするたびに生暖かい空気が僕ののどを通り抜ける。

いくら傘を差したところで、足元や鞄に多少なりとも水滴がにじむのは仕方のないことだ。
しかし、彼の髪も、服も、黒いナイロンのバッグも、まったく濡れている様子はない。
彼の頭上にだけ真夏の太陽があるかのように、完璧に濡れていない。
焼けたフライパンに水滴をたらしたときのように、瞬時に乾いてしまったのだろうか。

雨は昨日の夜から降りはじめた。僕がテレビのニュースを見ていると、窓にコツンという音が響いた。
やがて音の数が増えていき、雨が降ってきたことを知った。ニュースの天気キャスターも、
「今夜から明日いっぱいにかけて、関東地方は雨となります」と言っていた。
そして風呂に入り、眠った。朝起きると、昨夜よりも幾分弱くなったものの、雨は降り続いていた。

背番号51の男は、ただ目線を下に落としてじっとしていた。それは完全なる静止だった。
ミジンコを見るように細かく彼を観察すると、ページをめくる手の動きがわかった。
しかし、それ以外のときの彼は、冬眠している熊のように1ミリたりとも動かなかった。
まわりの乗客も、蒸し暑い車内の空気も、車輪の音も、彼にはまったく関係ないように思えた。
昨夜から降り続いている雨も、彼には関係のないことなのだろう。
僕は、そんな彼の姿を見て、彼が雨に濡れていない理由が理解できた。
それは、とても簡単な答えだった。

彼は、はじめから雨になど濡れていない。

やがて車内アナウンスが飯田橋駅への到着を告げる。
正確にいえば、アナウンスなんて僕の耳には届いていなかった。
僕の隣にいたサラリーマンが体の向きを変えたときに、彼の左ひじが僕の右わき腹に触れたことで
駅についたと気がついた。乗客がホームに降りはじめていた。
この車両に乗っていた人間の半分以上が降りていった。僕も、ここで降りて会社に向かわねば、と思った。
電車を降りる際に、もう一度背番号51の男をちらりと見る。このとき、彼と一瞬目線があう。
しかしすぐに、彼の視線は手元に移る。彼の口元は微笑んでいるように見えた。
そして、緑色のブックカバー。
僕は階段をのぼって、改札出口に向かう。電車は背番号51の男を乗せたまま発進していく。
ほどなくして、我々の距離は遠ざかっていく。
そのようにして、我々の共有は終わった。